「人前に立つことが得意なひと、表現することが好きなひと、手をあげてくれる?」
もしこう聞かれたら私は、満面の笑みで元気よくハイ!と答えただろう。
それは小学生の時からスタートしていたのだから。 好きだった国語の時間の本読み。先生にあてられるともう嬉しくて、それがまた「良く出来ました」と褒められる。こんなことも成績も普通の子供には自信になった。
6年生の学芸会。クラスメートの推薦があって(なぜか男子の)、クラス代表で舞台に立った。おばあさん役だったけどこれが私の初舞台。
そして、人生いちばんのモテ時だった(笑)中学生時代を経て、女子高校へ。ここでは、新聞部で記事を書いた。新聞部では苦い思い出もある。書いた記事の内容に問題あり!!と顧問から、発行差し止めに合い、生意気盛りだった私はとても悔しかった。
そうかとおもえば、朝日新聞の読者の投稿コナー「声」の欄に送った投稿文が2回も掲載されて、戴いた図書券にニンマリしたなんてこともある。生徒会の書記に立候補したのも高校生のとき。見事な友人の応援演説で堂々のトップ入選をした。
目立ちたがり、自己顕示欲の強い子供、そんな私…。
もうやるっきゃない! とうとう劇団の研究生のテストを受けた。 |
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それから興味は、役者から制作サイドへと変化して、映画作りをしていたある人のアドバイスで、シナリオ・センターの大阪校へせっせと通いだしたのだ。講座が終われば先生を囲み、居酒屋で仲間と熱くシナリオを語った。作品を書き上げては、辛い批評で落ち込むなんて事もいつもだったけれど、此処で、テレビ・ラジオ・映画・舞台のシナリオのノウハウを学び、プロのライターへの夢も戴いた。実際、今は亡き恩師のお蔭で、某タレントセンターの卒業公演や映画界のプロライターのゴーストで、東映の大部屋役者さん達の舞台を書かせて貰ったこともある。けれど、プロのライターへの道は厳しい。懸賞に応募するもたびたび落選した。
そうして、私は、私の中で、何かが崩れていく様な感覚を感じていく…。
"表現の世界"が私の表の顔だとしたら、私の中に眠る"愛せない自分"は裏の顔じゃないの?
もともと自己顕示欲が強いから、自然と目立つ行動をしてしまう。
だから、「やれそう!」「やってくれそう!」「自信ありそう!」 と。皆の期待が集まる。私はそれに応えようと、必死にもがき無理をした。とても苦しかった。
本当の私は、どれもこれも中途半端で、燃焼できない自分をごまかしていただけ。意思を貫いて、自信を手に入れていく友人が羨ましく見えた。それに比べて何も手に入れていない自分が嫌で嫌でたまらない。自分はなんてぶざまなのだろう? 頑張れば頑張るほど、自分の存在場所がない。人の眼に私はどぅ映っているの? 人は私をどぅ思っているの? 気になってしょうがなかった。
自分を愛せない…。
輝きたいのに、輝けない。輝けるはずなのに輝いていない。外側にばかり意識を向け続けたこの時の私には、救いはなかったのだ。
私には、寄り道がある。大阪の高級ネオン街、北新地でのホステス時代だ。
勤めたお店は、お客様が超個性人ばかりで店内は愉快だったし、余り色気は必要とされなかったこともあって、とても居心地が良かった。
夜ともなると昼間の顔をはがして、段々と変化していく人間たち…。見ていて安心だった。あぁ人間ってこんなものかぁ。ここなら、私は無理をしなくていい。私は風景の一部となり、誰も私に多くを求めなかった。自然のままの自分と出会った。
大阪北新地 ホステス時代
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幕末の時代が好きで「大阪龍馬会」に入会していた頃、会の仲間に心療内科に勤務する女性がいて、彼女が「はっちゃん、心理学に興味あるんやったらここへ行けば?」と勧めてくれたところが、京都国際福祉センターだった。京都の伏見桃山駅で下車して坂道を登って行く。そして、三年の月日。登り続けた。 |
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日本メンタル協会 研究科コース終了式
衛藤 信之先生と |
私は思う。出会った人たちから、どれだけ多くのメッセージを貰って来たことか、愛をプレゼントして貰って来たことか。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。 日本メンタル協会の同期生との勉強会がきっかけで、演劇経験も活かせる"声"に焦点あてた活動が始まり、"声"の魅力を伝えて行きたいと願うようになる。
コミュニケーションの場で、表情を持った"声"は威力を発揮してよりよい人間関係をもたらしてくれる。心と連動する"声"をみつめることから、ひとりひとりの"声"と向き合って行きたい。"声"の魅力を伝えて行きたい。
ふりそそぐやわらかな光をうけて、〜なりたい私〜は、もう揺るがないだろう。